禅僧の暮らしを生活習慣の中に取り入れている。800年近く続くしきたりには、それだけの合理性があると思えるからだ。
たとえば朝起きて、着替えが先か、歯磨きが先か。朝の食事はどのようなものがいいか。最低限の所持品とは何をどれぐらい持つべきなのか。風呂にどのくらいの間隔で入るべきか。
修行中の禅僧の生活では、それらがすべて細かく決められている。朝は着替えが先。朝食はかゆとごま塩、漬物のみ。風呂は四と九のつく日に入る……などなど。明確な理由を知っているわけではないが、800年近くそれらが守られてきているという事実が、それだけで何らかの合理性を証明しているように感じるのだ。
それらの生活習慣的なことがらは、悩み出すといくらでも悩めるので、決めてしまってルーチン化するのが合理的だ。その理由づけとして、禅宗のしきたりが便利だった。
今のところ、そのことで後悔することはあまりない。それらの内容は、このブログでも紹介していきたいと思う。
禅僧の生活を知ろうと本を読み、実際に体験してみて気付いたこともある。
禅は「マインドフルネス」のように言われ、精神的な活動のように言われる。坐禅は「無の境地」などと言われて瞑想と同一視されることもある。
だが、どうやら禅宗において坐禅は瞑想というより、形から入るいくものなのかもしれないと思うようになった。生活を調え、姿勢を調え、呼吸を調えたときに、初めて心が調い、無の境地への入り口が開くように思うのだ。
なんだかうまく言えないけど……これから徐々に書けていけたら。
どうぞよろしくお願いします。